木材加工のエキスパート!船大工の歴史BLOG DETAIL

日本一の木製家具の生産量を誇る大川市は、480年前室町時代の船大工の技術をルーツに持ちます。

商業的、軍事的に大きな影響力を持つ「船」。そのため、その時代時代において、造船にはその国の持つ最先端の技術がつぎ込まれることが常でした。今回は大川の、ひいては人類の進歩を語るうえで欠かせない「船大工の歴史」に踏み込んでいきたいと思います。

世界史における造船・船大工の発展

船大工の歴史は、そのまま人類の造船の歴史を追うこととなります。世界で最も古い「船」の原型はオランダのペッセで見つかった約8000年前のボートだとされています。

驚くべきことに紀元前4000~5000年には、既に人類は原始的なカヌーと天文学的な知識を持って太平洋を航海し、現代の太平洋・ポリネシア地域への居住を可能としていました。もっとも、この時代は船というより木をくりぬいて作られた簡単なカヌーのようなもので、本格的な「造船」技術には至っていません。

人類初期の舟

こうした原始的ボートの原型が造船技術へと転化されたのは、ひとえに貿易と戦争という政治的背景によるものが大きかったと言われています。世界史の中でも最初期に強大な水軍を抱えていたのは、紀元前3000年以降にナイル川沿いで繫栄を迎えた古代エジプトでした。もっとも、エジプト人にとって船とは広大なナイル川を航行するもので、外洋に漕ぎ出すものではありません。

この水軍の原型は紀元前3~5世紀に栄えたアケメネス朝ペルシャによって「海軍」へと昇華されます。海を越えてエジプトやギリシャに遠征できるだけの当時としては高度に発達したペルシャ軍の造船技術は、ひとえに古代地中海の貿易で財をなしたフェニキア人やエジプト人技師によるものとされています。

やがてサラミスの海戦で歴史的な大敗を喫したペルシャ海軍が没落し、その後を追うようにギリシャが没落を迎えると、地中海の覇権はハンニバル率いるカルタゴとローマ帝国の間で争われることとなります。このポエニ戦争は、ある種地中海の制海権をめぐる戦いであったとも言え、両国の間で激しい造船競争がおこなわれます。最終的にカルタゴを破ったローマが地中海の覇者となり、その経済的・軍事的全盛期を迎えました。

古代ローマの舟の模型(C)Flicker -ted

その後、地中海の制海権はイスラム勢力・キリスト勢力の間で激しく争われることとなります。15世紀に東ローマ帝国が滅亡し、地中海の制海権が完全にイスラム(オスマントルコ帝国)のガレー艦隊の手に落ちると、ヨーロッパ人は西回りでインドにたどり着くための遠洋技術を模索、キャラックの発明と大航海時代に繋がります。

キャラック(帆船)は、交易力・戦闘力に秀でたガレー船の上位互換のようなもので、複雑な製造工程のため100人単位の船大工がこうしたキャラックの造船に動員されました。続くガレオン船の発明においてもその流れは同様に、造船はより複雑で、高度な木工技術を要するものと化し、各国の海軍力、ひいては国力は「いかに優秀な船大工を集められるか」にかかってくるようになります。

キャラック(C)flicker Forsaken Fotos

こうした造船戦争を制したスペイン・ポルトガルが16世紀の海の覇者として君臨し、ガレー船からブレイクスルーをおこせなかったオスマントルコはレパントの戦いで惨敗を喫し、地中海の制海権を失います。

続いて世界の海の覇権を制したのは、イギリス海軍(ロイヤルネイビー)です。イギリスのヘンリー7世は造船所の重要性を世界でいち早く感じ取った人間の一人で、当時最高レベルの中央集権化された造船所を設立し、船大工、材料の調達、測量、人事担当者といった現代の造船企業に通じるようなスキームの基礎を形成しました。

こうした造船技術、船大工を自国で一貫しておこなえたイギリス海軍はその後第二次世界大戦に至るまで世界の海の覇者として君臨し続けることになります。また、当時のイギリスが戦艦の建造に用いられるオーク(広葉樹)の原産地であったこともイギリス海軍が最強であり続けたことの理由の一つだったとも言われています。

一隻のガレオン船建造するのに用いられる木材の量は約6000本、大航海時代から近代までイギリス海軍は実に120万本ものオークを伐採したとされており、今に続くイギリスの森林問題の起源の一つに数えられています。

19世紀の造船の様子(C)flicker tormentor4555

日本における船大工の歴史

古代・中世日本においても海を越える造船技術は既に備わっていました。7世紀には遣唐使船、白村江の戦いなど中国や朝鮮半島への航海がおこなわれており、これらは当時の日本の建設技術の髄が結晶されたものと言われています。

その後も、日本史において水軍・海軍は一定の重要度を持ち続けており、その時代の権力者にとっても造船技術の発展は関心ごとの一つでした。朝鮮・中国との貿易、北部九州に定住していた海の民「阿曇氏」などの影響もあって、九州は日本の水軍の頂点でありつづけましたが、源平合戦で九州の水軍は源氏の軍隊に粉砕されます。

強力な水軍・海軍は歴史の流れを変えますが、基本的に平時必要とされるのは貿易・交易に用いられる商船です。注意点として、こうした商船には戦闘能力は皆無で、あくまで交易のための遠洋や、河川運送の目的で用いられていました。

雄大な筑後川

 

日本最大の木製家具の生産地大川市は、九州北部、筑後川下流に位置します。輸送技術の発展する前、中世日本の木材の輸送方法の主流は河川による筏流しであり、筑後川から有明海に、舟運から海運に移し変えるこの大川の地が、九州随一の木材加工拠点として、ひいては船大工の町として栄えることとなります。

久留米大学、大矢野教授によると、日田の肥沃な木材が筑後川を通って下流の大川に流れ着き、ここで加工された木材が水車などに利用され、筑後が日本有数の米どころとして栄えたと唱えています。筑後川と大川の船大工、そして筑後の発展はこのように密接に繋がりあっていたわけです。

さて、応仁の乱以降、日本が戦乱の世になると各国の大名たちもこぞって水軍力の増強に努めることとなります。安宅船や鉄甲船など、いくさ向けの船が競うように建設されるようになりました。有明海という水軍の常設に不向きな(潮の満ち引きのせいで)港にこそ強力な水軍は育ちませんでしたが、大友氏と龍造寺氏の戦いの際には田尻氏が榎津(現大川市)に水軍を用いて在陣したという記録が残されており、それなりの貢献はされていたようです。

その中で、我々の先祖である大川の船大工たちがどこまで兵船の建造に携わったのか、それらが九州の戦国史にどのような影響を与えたのか、詳しい資料はあまり残されていませんが、思いをはせるのもまた一興です。

戦国時代が終わりをつげ、強力な水軍の需要が日本からなくなりました。江戸幕府はまず西国大名の、ついで全国の大名の500石以上の船を軍事用・商用問わず没収・製造禁止の勅令を打ち立て、反乱の芽を防ぐこととします。

一次はガレオン船を作るほどの技術をもっていた日本の造船の歴史も、この令により封印されることとなりました。

阿波水軍をルーツに持つ徳島、上述の通り筑後川下流において栄えた大川などの大工は、造船で鍛えた技術を「家具づくり」に転化し、日本有数の家具生産地として栄えていくこととなります。

時代が移り変わり、需要が変化を遂げても、こうした技術が廃れることなく、姿を変えて現代に累々と受け継がれてるのはなんとも感慨深いものですね。

船大工の源流をもつ大川の職人たち

 

大川の職人技術によって完成された移動式茶室

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