家具の町大川の戦国史 蒲池家から立花家へBLOG DETAIL

現在の柳川・大川一帯(柳河藩)が、江戸時代には立花氏によって治められていたことは知られていますが、それ以前の歴史についてはあまり表に出ていないことが少なくありません。

肥沃な土地と広大な河川、そして大陸との貿易玄関として様々な戦国大名の野心を掻き立てた筑後・筑前地域(現在の福岡県)は、今日の味方が明日の敵になるような、領土の移り変わりの激しい土地でした。そんな筑後の要衝、柳河藩の戦国史はどのようなものだったのでしょうか?

※当ブログにおいて、現在の大川市の領域にあたる土地には便宜上「大川」の呼称を用いますが、16世紀~17世紀は別の名称が用いられていたことに注意

蒲池家の全盛期

現在の大川市にあたる地域は戦国時代、筑後国(現福岡県南部)の一角として数えられ、その領土は蒲池氏によって長年治められてきました。筑後国の守護は平安時代より続く日本屈指の名門、大友氏ですが、実質細分化された村々を統治していたのは国人領主と呼ばれる蒲池氏のような者たちです。筑後に多く存在する国人領主の中でも、蒲池氏は「筑後筆頭大臣」と呼ばれるほどの強い国力(一説には12万石)を保持して、大友氏にも一目置かれていました。

応仁の乱によって荒廃した京を逃れた榎津久米之介(1485~1582)が大川に流れ着き、船大工たちを従えて大川木工の礎を築いたとされるのが1536年とされているので、このころは蒲池鑑久(1494~1543)・蒲池鑑盛(1520~1578)父子の治世だった考えられます。

蒲池氏16代目当主の蒲池鑑盛は名君と謳われ、彼の治世で領土は繫栄を遂げます。当時支城の一つに過ぎなかった柳川城は、鑑盛の時代に本城として改築され、後に難攻不落と呼ばれる鉄壁の城へと生まれ変わることとなります。また、この時期に柳川の水路が整備され、国内の流通インフラが整えられることとなりました。柳川の水路を用いた物資の運搬にとって船の建設は必須であり、このころから大川家具の礎となる船大工の技術は礎が築かれていたと言えるでしょう。

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さて、上述の通り筑後国の守護は大友氏です。守護である大友氏の招集に従い、蒲池氏はこの時期、大内氏や毛利家との戦争に幾度となく駆り出されることとなり、そこで武名を上げました。大内氏の策で筑後の領主たちが一時的に大内氏に呼応したときも、蒲池氏は大友家への忠誠を貫きとおします。守護と国人領主の関係は戦国時代、時世に応じて利用しあい、時に裏切り合う種のものでしたが、「義心は鉄の如し」と評価された鑑盛の存命の間は大友家と蒲池家の関係は比較的良好でした。もっともその順風満帆に見える蒲池氏による統治態勢は、大友氏の没落と共に暗雲が立ち込めはじめます。

大友氏の没落と耳川の戦い

1570年代に入ると、一時は九州の半分をその勢力下に治めたはずの名門大友氏は、次第にその求心力を失うこととなります。1570年、今山の戦いで新興勢力である佐賀の龍造寺隆信に破れ、肥前や筑後における国人衆の信望を失います。また、大友宗麟がキリスト教に傾倒をはじめ、国内家臣団は仏教派とキリスト教派で二分されていくこととなりました。権力を手にし疑心暗鬼になった宗麟は、粛清によって家臣団を殺害、しまいには家臣の妻を奪うなど傍若無人ぶりが目立ち、次第に家臣の心が彼から離れていくこととなります。

大友宗麟

そんな大友家の栄光に陰りが見え始めた1578年、蒲池家にとっても大友家にとってもターニングポイントとなる大きな戦いが勃発します。戦国史に名高い「耳川の戦い」です。

現宮崎県中央部に位置するこの土地で、大友軍4万と飛ぶ鳥を落とす勢いで北上を続ける島津軍2万が激突、結果的に大友氏は歴史に残る大敗を喫し、多くの将兵をこの戦いで失うこととなります。事実上、この耳川の戦いに敗れたことで、大友氏の九州制覇の夢は実現不可能となり、その後積極的な攻勢にでることは無くなりました。

名君と呼ばれ、大川・柳川の経済圏の発展に貢献した蒲池鑑盛もこの戦いで戦死しました。息子の鎮漣は父親程の大友氏への義理を持ち合わせず、自分の兵を耳川で戦わせず柳川城へ撤退、やがて大友氏に見切りをつけて龍造寺に味方することとしました。

三つ巴の戦い

耳川の戦い以後、蒲池家は龍造寺、大友、島津という九州三大勢力に囲まれ、ギリギリの綱渡り外交をおこなうこととなります。まず、上述の通り佐賀(肥前)方面で力を付けた龍造寺に恭順の意を示しますが、大友氏の根回しによって再度大友氏への内通を取り付けると、今度は怒り狂った龍造寺の攻撃を受けることとなります。

この時の龍造寺隆信の蒲池家への攻撃は苛烈を極め、一説には2万人の兵で柳川城を包囲したともされていますが、鎮漣の父鑑盛が築いた柳川城は固く、「柳川三年、肥後三月、肥前、筑前朝飯前」(肥後は三ヶ月、肥前と筑前はすぐに落とせるが柳川を落とすには3年かかる)と歌われるほどでした。結局、龍造寺氏は柳川城を攻め落とすことができず、蒲池家と龍造寺家は一旦講和を結ぶこととなります。

龍造寺隆信

もっとも、九州三大勢力の真ん中に浮かぶ小舟のような蒲池氏は、単体で生き抜くことはできません。落ち目の大友家、何をしでかすか分からない龍造寺家に見切りをつけた蒲池家は、薩摩の名門島津家と内通をはかり、すり寄ることとなりました。最終的には、この内通が決定打となり、蒲池鎮漣は激怒した龍造寺隆信によって城に呼び出され、殺害されることとなりました。

当主である蒲池鎮漣を殺すに飽き足らず、隆信はそのまま柳川を包囲(柳川の戦い)、蒲池家を根絶やしにします。この龍造寺隆信によって、鎌倉時代以来の名門、蒲池家は滅亡することとなります。大川木工の祖とされる榎津久米之介も、蒲池家の滅亡と前後してこの世を去っていることが文献から読み取れます。

大川地方のその後

一度は龍造寺家に支配された旧蒲池氏の柳川・大川周辺の領土ですが、その龍造寺家の栄華も長くは続きません。耳川の戦いで大友氏を撃破した島津家が、今度は龍造寺家に牙をむきます。1584年、長崎県島原半島を舞台に勃発した沖田畷の戦いで、龍造寺家は宿将の大半と領主である龍造寺隆信が戦死するという歴史的な大敗を喫し、戦国史の表舞台から脱落することとなります。

もっとも、一時は九州支配に王手をかけた島津氏も、日本の覇者となった豊臣秀吉の大軍には適いませんでした。大友氏の要請をうけて1586年、20万の大軍を率いた豊臣軍の九州征伐が始まります。
多勢に無勢、強敵2氏(龍造寺&大友氏)を破った武闘派の島津家も、本国で洗練された豊臣家の大軍には適いませんでした。豊臣軍は島津連合を各地で破り、最終的に柳川一帯の旧蒲池家領土は豊臣軍と同盟を結んでいた大友家家臣の立花宗茂に与えられることとなります。

柳川・大川地方の領土変遷は続きます。1600年に勃発した関ヶ原の戦いで西軍に味方した立花宗茂は所領を没収され、今度は当該領土は田中吉政の手に渡ります。この田中氏の治世にあって筑後川の河川改修が積極的におこなわれ、木工家具の発展に欠かせない他県との水路インフラが劇的に改善することとなります。

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ただ、最終的に、田中氏は無子改易となり、巡り巡って柳川藩は再び立花宗茂の手元に帰ってくることとなりました。また、立花宗茂の治世においてかつての柳川領主であった蒲池氏の子孫が家老格として取り立てられることとなり、現在に至るまで血脈を保っています。

現在は柳川城の城跡のみ残る

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