【戦争と木材】軍需物資としての森林資源の歴史BLOG DETAIL

コロナ禍やロシアによるウクライナ侵攻を契機に浮き彫りになった我が国の「木材資源」を取り巻く供給体制の脆弱性。平時を少し離れると、国土の多くが森林に囲まれている日本にあっても、木材は貴重な資源なのだという事が理解できるでしょう。

今でこそ想像がつきませんが、かつての日本において木材は重要な戦略燃料であることは周知されており、戦国大名は木材資源を奪い合う戦争を度々繰り広げています。今回の記事では、我々を取り巻く木材資源の大切さを振り返るために、戦争と木材資源というテーマを追っていきたいと思います。

日本の歴史と木材資源

国土の3分の2が森林に囲まれた日本という国にとって、木材は古くから国民の生活に欠かせない、最も身近な素材として親しまれてきました。日本人と木材資源の密接な関係性はすでに縄文時代から確認されており、竪穴式住居の柱、武器、舟、農具、と原始的生活を支えるための様々な道具として用いられてきていました。

佐賀県吉野ケ里遺跡

奈良時代以降、都市部において寺院や宮殿をはじめとする木造建設、および都市部への人口集中による都市計画が本格化すると、木材資源への依存度は加速的に高まり、これが森林資源の乱獲に繋がります。詳細に関しては「森林破壊の起源は奈良時代?」の記事を参考してください。

現代のように、木材に代わる物質の選択肢がありふれた時代からは想像がつきませんが、産業革命以前の世界史において、木材は上述のような建築資材のみならず、エネルギーや産業の根幹をなすうえでも重要な戦略資源でした。日々の料理、製鉄や鋳造のための燃料には木炭が使用され、河川ロジスティックの要としては木製の舟が活躍、その他、農具、家具、倉の作成など、中世以降の文明化と人口増加には木材資源の活用が不可欠だったのです。

このように、木材資源の国家経営における重要性が高まり、乱獲によって近隣でとれる良質な木材の希少性が増したことから、平安時代中期あたりからこうした木材の売買を生業にする「材木売」、また材木売のギルド的特徴をもつ「材木座」といったスキームが発展し、木材ビジネスが中世日本の経済システムの中に組み込まれていくこととなります。

古い起源をもつ日本の「材木業」

戦国時代と木材資源

戦争というと、石油資源を動力とした飛行機と軍艦がいきかう非木材資源によって作られた武器や兵器が主役化した舞台(特に太平洋戦争)をイメージしがちですが、産業革命どころか鉄砲伝来後の戦国時代にあっても、木材は戦争における主要な資源であり続けました。以下に、戦国時代における木材使用の主たる例を挙げていきましょう。

築城

近世以前の国家経営における木材資源の重要さは、ある程度のイメージがつくでしょう。代表的な用途としてはお城や城下町の建築が挙げられます。統治シンボルとして使用するにせよ、戦略的な価値を求めるにしろ、お城の普請には膨大な材料が必要になりますが、柱として使用する木材以外にも、膨大な数の石垣のための石を運ぶための石船や、鋳造・製鉄用の木炭のように、そもそもの下準備のいたるところに木材は必要になってきます。

築城の中には、本拠地として活用するお城以外に、単なる防御拠点としての城塞群なども含まれ、戦国時代には日本中に合わせて2万~5万のお城が存在したと言われました。こうした城作り一つ一つに膨大な木材資源が使用されたとなると、どれくらいの量になるのか想像もつきませんね。

鉄砲の普及とともに簡易築城陣地による防衛戦術は常態化し、例えば長篠の戦いでは豊富な木材資源を駆使し騎馬隊に突破困難な柵を設けています。その背後に張り巡らした鉄砲陣地によって、織田・徳川軍が完勝したことで有名です。

普請の重要さを知る他の例としては、織田信長の跡目争いとして有名な賤ケ岳の戦いでしょうか。豊臣軍と柴田軍による「築城戦」と呼ばれるほど大規模な陣地合戦がおこり、結局この戦いでは、先に豊臣の築城ラインに突撃した柴田軍が敗北しています。単なる野戦指揮官としての能力ではなく、大名クラスの指揮官にはこのように土木工事の管理能力が求められるようになっていきます。

大阪城(Photo by 中岑 范姜

武器・防具・兵糧

木製の槍のように、そもそも素材の中に木材を用いるような武具は勿論、そもそも鉄砲や刀といった鋳造、製鉄にも膨大な木炭燃料を使用することを忘れてはいけません。加えて、鉄砲の普及とともに、防具としての「竹束」が本格的に使用されることとなり、戦役のたびに膨大な量の竹が切り出されることとなりました。

大規模な行軍にはやはり大規模な兵糧がつきものです。名将とは兵士を飢えさせない将のこと、と言われるほど当時の足軽にとって飯にありつけるか否かは重要でした。1,000人の兵士を動員すると一日に1トンの米と2トンの水が必要とされると言われています。当然、生の米は食用に適していないため、これらを薪を使って炊くわけです。1000人用の炊事、つまり1トンの米を炊くための薪を確保するだけでも大変なのに(※ホームセンターなどで売られている薪一束は7㎏で、3~4時間の炊事向け)、行軍規模が10,000人になったり(例えば桶狭間の今川家は25000人を動員)、行軍が数か月規模に至ると(例えば秀吉の小田原征伐は5ヶ月)、もはや途方もない量の薪を必要とすることが分かるでしょう。

九鬼水軍、小早川水軍、村上水軍、里見水軍と、各地の戦国大名は強力な水軍を保有し、時には交渉を有利に進める政治的な材料として、時には敵を駆逐する強力な武器として、使用してきました。世界史上では1818年にイギリスで作成されたバルカン号が鉄製の船の起源とされ、それまでは舟の素材としては水に浮きやすい木材が使われています(ちなみに、英国海軍の軍歌には「Heart of Oak」という、舟の材料であるオークが題目として使用されています)。

水軍の運営は制海権の確保を至上命題としており、すなわち海の上で華々しく敵を撃滅する、というよりは水路を用いての資源や兵糧の運搬を可能にするため、と言えるでしょう。例えば、石山本願寺と織田信長との戦いでは、石山本願寺の籠城軍に兵糧を補給するためのシーレーンをめぐって毛利軍と九鬼水軍が死闘を繰り広げています。

つまり、直接海上に打って出ることがないような戦国大名でも、海を用いての商流や販路が水軍によって脅かされると兵站上の致命傷になるわけで、運搬用の船、制海権を確保するための水軍用の船、多くの木材資源を船の作成に費やすことになりました。

ちなみに、日本の家具産地として有名な町には、福岡県大川家具や、徳島県徳島家具のように、戦国時代の船大工の名残がその地に根付き、家具職人として発展していったような土地もあります。

480年の歴史を持つ大川の職人たち

戦国大名と木材資源

そんなわけで、建築資材から燃料材まで、木材は様々な用途で戦国時代にとっての戦略上重要な資源として見なされていました。そんな木材資源をめぐって、中には木材の売買を武器に成り上がった人物もいれば、逆に没落した人物もいます。

前者として有名なのは、「土佐の出来人」と呼ばれ四国全土をほぼ手中に収めた長曾我部元親でしょうか。米の収穫高が限定的な土佐を率いて四国を平定した長曾我部元親は、指揮官として優秀だった以外にも、豊富な木材資源を用いて土佐経済を潤せるための経営者的着眼点を持っていました。木材資源育成と、専売化によって、膨大な木材資源を必要とする機内地方への木材販売の利益を牛耳り、富国強兵に努めます。結局、経営者としてもう一枚上手な秀吉に破れ土佐以外の領土を失陥しますが、秀吉からの信頼は厚く、土佐の材木集めの管理を任されることとなります。

逆に、木材ビジネスに手を出して命を落とした輩も存在します。豊臣秀吉の弟、秀長の配下であった吉川平介は後に紀伊一部の7000石を与えられ、その地の木材管理をおこなう「山奉行」に任命されます。1580年代後半、すでに小牧・長久手の戦いで徳川家康相手に戦略的勝利をおさめ、九州の島津家を武力討伐した豊臣秀吉の全国統一ムードが漂う中、畿内では築城や普請が積極的に推進され、木材需要が高まりました。そんな中、木材ビジネスが膨大な利益を生むことに目を付けた吉川平介は一部の利益を着服し、私腹を肥やすことに成功しますが、そんなあこぎなビジネスが長く続くわけもなく、晩年猜疑心の塊と化した秀吉に見つかり処刑されてしまいました。

豊臣秀吉(Photo by moollyem

太平洋戦争と木材資源

さて、冒頭で示した通り軍艦や飛行機が主役となる近代以降の戦争では木材資源の出番は薄まるように思えますが、実は太平洋戦争中にあっても軍部は積極的な木材の徴発をおこない、兵器や燃料としての活用をおこなっています(参考:「戦争が巨木を伐った」)

ABCD包囲網によって貿易制裁を施され資源を輸入できなくなった日本にとって燃料の自給自足は死活問題でした。独自の石油・鉱物資源の乏しい日本は、仏領インドシナへの進駐作戦をおこない油田を確保する一方で、唯一自国の資源として使用できる木材資源に目を付けます。特に、戦争中期以降多くの輸送船を失ったこと、制海権をアメリカに握られ植民地からの資源の輸送自体が困難を極めるようになったことで、内地の木材は供給キャパシティを越えた過度な徴発がおこなわれるようになっていきます。徴発された木材は、鋳造や製鉄の燃料として石油資源に代わって木炭資源が使用されたり、戦艦を製造する足場や甲板部分のような用途で木材が使用される他、木製の輸送船や飛行機が作られ始めるに至りました。

(余談ですが、第二次世界大戦中の名作戦闘機と言われるイギリスのデ・ハビランド モスキートも木製飛行機として有名です。)

デ・ハビランド モスキート
(Photo by Alan Wilson

さて、結局圧倒的物量で制海権・制空権を握ったアメリカに太刀打ちできず、日本は1945年の敗戦を迎えます。シーレーンの封鎖によって南洋材が入ってこなくなったことと(供給減)、上述のような無茶な徴発(需要増)のダブルパンチによって、日本国内の伐採可能な森林資源は目減りすることとなります。

結局、戦後の復興需要やその後の朝鮮戦争等とあわせ、この時期の過度な森林資源の乱獲は後々まで日本の林業に爪痕を残すこととなりました。はげ山となった各地で土砂災害が頻発し、政府は人工林の植樹に着手、のちの花粉症の悲劇を招く「スギ」「ヒノキ」がこうして日本各地に植えられていくこととなります。

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