【大川家具480年の歴史】なぜ大川の家具は世界最高水準なのかBLOG DETAIL
府中、静岡、旭川など、日本に「家具の産地」と呼ばれる地域はいくつかありますが、その中でもひと際長い伝統を持ち、日本の家具づくりを牽引しつづけた地域が「大川」です。地理的、歴史的に家具づくりに適した条件を備えた大川は、日本の時代の節目節目にその存在感を示してきました。
今回の記事では、大川家具の起源から現在までの大川の歴史、その特徴について網羅的に解説していきたいと思います。
大川家具の原点
稲作に適した気候と土壌、河川水運に適した広大な筑後川と有明海、そして貿易口となる港を近くに有するという好立地条件に恵まれ、日本の有史以来、九州北部の筑後エリア(現在の大川市の位置する場所)は栄えてきました。特に、筑後川を利用した物流インフラは、当時にしては困難であった重い木材や資材の運搬を可能にし、地元の林業、木材加工、船大工、といった木材や物流に関わる交易スキームを発展させました。
もっとも、恵まれた土地であるということは、また同時に、戦国時代多くの野心ある領主による侵攻を招くことをも意味します。実際に九州北部、豊穣な筑前・筑後地域をめぐって戦国時代には大内氏、毛利氏、龍造寺氏、大友氏、島津氏などによる激しい争奪戦が繰り広げられました。当初は柳川・大川は鎌倉時代以来の名家、蒲池氏が統治していましたが、やがて没落とともに龍造寺家、立花家、田中家、などの手に渡り、目まぐるしい領主の変遷を繰り返します。
そんな軍事的・経済的要衝であった大川に家具づくりの原点ともいえる出来事が起こるのは、そんな室町時代後期、1530年代のことです。織田信長が誕生し、秀吉や家康はまだこの世に生をうけてすらいない時代で、まだまだ彼らによる天下布武には遠く、1467年以降続く応仁の乱によって京のみならず各地の政権は混迷を続けていました。
時の将軍は足利義晴。将軍とはいえ名ばかりで、政治的な権限はほぼ形骸化しており、中央では細川氏、三好氏、足利氏が互いに相手を出し抜こうとドロドロとした政治戦争をおこなっていました。この足利義晴の家臣の弟に榎津久米之介という人物がおり、やがて中央の混乱期に兄が戦死すると、1535年に僧として出家したと伝えられています。出家した榎津久米之介は翌年、筑後に「願蓮寺」を設立、同時に地元の船大工たちの技術を活かし「指物つくり」を始めさせたため、これが大川家具の原点になったと言われています。
室町時代までの文化の中心地は京都で、この応仁の乱による中央の荒廃によって京を逃れた人たちが、日本各地に伝統文化や職人技術を伝承する契機になったとも言われています。資料が乏しく憶測に過ぎませんが、榎津久米之介は恐らく、宮廷文化の中心地である京都で指物の知識を身に着け、それを大川に持ち込んだのではないでしょうか。当時の筑後は大友・大内の両氏が覇権を争っていた時代で、戦争には大量の資源(普請のための木材、武器、兵糧など)の貯蔵とそれを運搬する物流インフラが欠かせません。こうした戦争時の需要増加にともなって筑後川周辺の河川水運網・物資貯蔵庫としての重要性は高まり、同時に船大工のような高度な物流インフラに携わる人々の技術も高まっていたのでしょう。
(※同じような事例でいうと、強力な阿波水軍の本拠地で知られる徳島の船大工たちも、徳島家具の原点となったと言われます)
江戸末期の革新 田ノ上嘉作の登場
榎津久米之介によって指物文化が大川に持ち込まれるより以前から、大川市は家具作りの産地が発展に要する好条件をすでに抱えていたと言えます。
- 潤沢な木材資源
- 広大な一級河川と木材の運搬ネットワーク
- 地元の木工技術と職人
- 販売を下支えする近隣の経済圏
日田木材で知られる九州北部の良質な木材資源、広大な筑後川と「筏流し」による木材運搬、上述のような船大工文化、そして毛利氏も欲しがった筑前・筑後一帯の経済圏、といった条件を持つ大川が「家具の名産地」になることは、歴史の必然だったのかもしれません。
もっとも、好条件を有しているということは家具産地の十分条件の一つに過ぎません。日本の明治維新が大久保利通や桂小五郎のような出色の幕末志士達によって率いられ、戦後日本の高度経済成長が松下幸之助や本田宗一郎のような傑物に牽引されたのと同様、歴史の転換期には、その土地のもつ有利な地政学的条件に加え、産業にコペルニクス的転回をもたらす「革新的人物」を登場を待つ必要があるのです。大川家具にとってその人物とは「中興の祖」と呼ばれる田ノ上嘉作でした。
江戸末期の1800年代前半、大川の船大工・指物職人の技術は高まり、200人規模の地場産業ネットワークが形成されつつありました。ひがな一日、ノミとトンカチの音が鳴り響く榎津長町に1812年、田ノ上嘉作は生をうけます。周囲の大人と同様、彼も幼いころから自然と職人としての道を歩みますが、型破りな田ノ上嘉作は、久留米に優秀な指物職人がいると聞きつけると18歳にして飛び込んで弟子入りし、その技術を大川に持ち帰ります(彼の孫の初太郎もまた革新的な人物だったようで、彼の衣鉢を継いで長崎でオランダ流の指物を勉強、大川への頭脳還流に貢献します)。
これは推測に過ぎませんが、1535年以降300年近く連綿と継がれてきた榎津久米之介流の指物文化は、恐らく江戸後期の田ノ上嘉作の時代には、技術こそ優れて居れども、革新性を欠いた産業になりつつあったのではないでしょうか。幕末から明治期にかけて、大川同様、府中や静岡のような家具の産地も近代化の波の物流革新に乗って日本全国へ販売されるようになりますが、日本の近代化の黎明期に田ノ上嘉作とその孫が「革新の風」を大川にもたらしたのは幸運でした。300年近く続く確固たる「伝統技術」に、嘉作が「革新」を持ち込んだことによって、大川家具は日本の最先端をいく産業競争力のアドバンテージを得るのです。
日本の近代化と大川家具の躍進
大川同様、日本の家具産地の躍進にとって日本の近代化は不可分の出来事でした。以下のような事象に支えられ、明治~戦前の日本の木工・家具づくりは成長を遂げることとなります。
- 鉄道・道路インフラの発達と遠方への出荷
- 同様に、遠方から多種類の木材仕入れ
- 木工機械の発展と、加工の複雑化・精密化
- 経済発展と内需の拡大
こうした外的要因に加え、九州大学山本教授の「国際的競争下における大川家具産地の縮小と振興政策」の引用するように、大川という地区が内在的に持つ強みとして、一種、地域内の各産業・企業間の網の目の高密度コミュニケーションによる「社会的資本」の蓄積が挙げら、これが室町後期からの長い年月をかけて大川地区で醸成されていったのではないでしょうか。
一つの家具の完成には(物にもよりますが)、製材職人、曲げ職人、金具職人、塗装職人、寄木職人、に加え、物流、運搬、林業など木材に関わるエキスパートの集合知が必要とされており、この職人・企業同士の相互コミュニケーションが容易な大川においては大きなアドバンテージと言えます。ある種、大川には日本の近代化の土壌となった「工場制手工業」の理想形がこの時点ですでに具現化されていたことでしょう。
こうした内的・外的好条件に支えられ、大川の家具づくりは日本の近代化とともに成長します。明治中期には大川全体の4分の1が木工関係者だったと言われ、当時の人口が30,000人前後だったことを考えるとおよそ8,000人近く、現代でいうところの大企業規模の生産能力があったことがうかがえます。
1912年、大正期には大川に鉄道駅が作られ(現在では廃線)、まさに大川の家具づくりの第一次黄金期であったといえるでしょう。この後、日本は泥沼の日中戦争、昭和恐慌の混乱期を経て太平洋戦争に突入し、大川の家具生産も戦時期には生産がストップすることとなります(ちなみに、大川の高い木工技術は軍部によっても評価され、戦中、大川で木質飛行機の製作所が設けられていました)。
戦後の大川家具 高度経済成長と日本一の家具の町
幕末から明治にかけての日本の近代化が、日本の家具づくりの一つの繁栄期と言えるのであれば、戦後~高度経済成長は二つ目の繁栄期でしょう。戦後焼け野原となった日本の復興需要は、特に人々の生活インフラを必要とし、大川は国から「重要木工集団地」としての指定をうけ、復興にともなう家具供給を支えます。
トラックが人々の手の届く値段で供給されはじめ、木材の流通もよりスピーディに、より容易に行われるようになりました。加えて、木工技術の発展、経済発展、結婚ブームやベビーブームによる需要の増加、などが追い風となり、大川は日本一の家具の町へと発展することになるのです。
このころ昭和中期、大川には新たな革新をもたらす人物が現れます。河内諒という工業デザイナーは大川家具の名を一躍日本に知らしめた「引き手なしタンス」の発案者で知られており、瀟洒で洗練されたデザインと高度な職人芸の組み合わせで誕生したこのタンスは日本にブームを巻き起こしました。
日本の家具づくりのピークは、日本経済の絶頂期と同じ1990年前後と言われています。このころを境に次第に日本の家具づくり生産量は頭打ちとなり、続いて日本の失われた20年と内需の減退、海外の安価な家具の台頭、産業の空洞化といった退行期に突入します。大川家具も他の日本の家具産地やモノづくりの現場同様、バブル崩壊以降正念場を迎えるようになるのです。
バブル崩壊と大川家具の復活
バブル崩壊が単なる「不景気」で終わらなかったのには、単に経済政策の失敗というより、日本の人口動態の変化といった内在的な問題を多く孕んでいたからでしょう。また、産業構造の変化も日本のモノづくりにとって逆風となりました。技術イノベーションによってIT化と情報共有速度が加速すると、暗黙知・集合知を得意とする日本のモノづくりは他国と比べ劣位化し始めます。
ちなみに、工業地理学分野での日本における第一人者である井出策夫氏は大川地区を対象とした研究もおこなっており(「産業集積の地域研究(2002)」)、下記の点を昨今の大川のもつ「特徴」について「木工工場の高い分布密度」「親戚関係の中での生産結合」「依然として高い大川市の中での家具・木工従事者人口」「産地メーカー独自の流通ルート」などを挙げています。
仮にこれら特徴の多くが、大川市の内在的に抱える、480年の歴史に紐づいたものであるとするのであれば、単にこれらを捨て一辺倒の価格勝負、資本集約型の大量消費生産体制、といった大川職人の得意としないフィールドにかじを切るのは得策ではないでしょう。一方で、何も手を加えないと、木製家具の輸入浸透率が示す通り、いずれ近隣諸国の家具生産国に国内産業が淘汰されてしまいます。
上述した通り、時代の転換期・難局に際しては田ノ上嘉作や河内諒のような、旧態依然とした制度のテコ入れと、革新的な人物の登場が求められます。1990年以降の大川は、幕末一時的に革新の低迷しつつあった時期と似ているのではないでしょうか。
徐々にではありますが、現在、大川家具は、自身の強みを保持しつつ、新しい風を取り入れる改革をおこない、その再興の芽を咲かせつつあります。大川インテリア振興センターのような地場一体の人材育成や、当社プロセス井口の進めるWAZA Japanの海外販路の拡大や欧米デザイナーとのコラボレーションなどがその一例として挙げられるでしょう。
こうした新しい試みによって、家具の集合生産地から人々の暮らしに高付加価値を与える「トータルデザインコーディネート集積地」へと進化しつつあるのです。こうした新たな試みは国内外からの評価を得つつあり、大川の家具づくりにもポジティブな話題が事欠かなくなってきました。
企業も人も、長い歴史の中で必ず苦境をしのばねばいけない時期があります。そんな中、じっと耐え伏して神風が状況を一変してくれるのを待つのか、苦境から逃げ出すのか、果たしてどちらの選択が正解でしょうか。我々は、神頼みの神風は信じませんし、逆境から逃げることもしません。自らの殻を破って大川に新しい風を吹かせた田ノ上嘉作のように、むしろ自ら神風となって大川の家具づくりを牽引できる立場になるよう、邁進していく所存です。